【起業の経緯06】量子論と信仰の関係性
腹落ちの理由
前回の記事で、ある本を読んで、これまでモヤモヤしてきたことがスッと腹落ちした転機について触れた。
これは、側から見ると随分と飛躍があるように見えるかもしれない。僕もなぜあの時一気に腹落ちできたかはうまく説明できないのだが、実は少し心当たりがある。それは、今後の活動においても僕の思考の根幹をなす重要な部分になるため、ここで少し掘り下げておきたい。
量子論との出会い
僕は大学・大学院時代に機械工学を専攻していたこともあり、物理学を学んだ経験と知識が少しだけある。そこで出会ったのが、量子論という学問分野である。ちなみに、僕はそこまで成績が良くなかった側の人間だったのであまり偉そうに語れないのだが、拙い知識と理解を基に、恐る恐る紐解いていく。
従来の物理学は、「りんごがなぜ地面に落ちるのか」という逸話で有名なニュートン力学という考え方が主流だったが、19世紀後半以降、実は電子や素粒子といった微小な世界では全く異なるメカニズムで動いていることがわかった。それが量子論だ。そのメカニズムは、粒子の性質と波の性質を併せ持ち、その存在は確率分布として存在していて一点に定まらない性質(ハイゼンベルクの不確定性原理)だというのだ。これが事実だとすると、極論、素粒子の集合体である自分の肉体もこの机もコップもある確率でここに存在しないかもしれないってこと??と衝撃を受けたことを覚えている。さらに「物事の状態は観測によってはじめて決定される」という今から100年ほど前にボーアによって発表されたコペンハーゲン解釈は当時大きな論争を呼んだが、その後の研究でその解釈が正しいことが実験によって証明された。この事象を説明するには、シュレーディンガーの猫という思考実験がわかりやすいが、簡単に言うと、部屋の中にいる猫が生きているか死んでいるかは、観測してはじめて決定すると考えるということだ。つまり、観測するまでは、生きている状態と死んでいる状態が50%ずつ共存しているという、およそ人間の直感とは異なる現象が起きているというのである。これにはあのアインシュタインも信じることができず「そんなのわからないから確率に逃げているだけじゃないか」と、ボーアと度々激しい議論を重ねたものの、彼らが生きるその時代のうちには結論が出なかった。それからしばらくが経ち、彼らの死後数十年が経過した頃、アラン・アスペが実験によってボーアの主張が正しかったことを明らかにしたのだ。後にこの実験の成果はノーベル物理学賞として評価されることになる。そして今や、この人間の直感と反する量子論が一般常識となり、自然科学の世界では正という前提で現代のテクノロジーである半導体やスマホ、PC、ロケット等は作られている。
さて、これがなぜ祈りとつながるのか。ここからは僕の勝手な解釈であることを前置きし、順に説明していく。
量子論と祈りの共通点
まず、素粒子は万物の素となる物質を構成する最小単位である。そしてこの素粒子は、繰り返しになるが、粒子の性質と波の性質を併せ持つ。そして、あらゆる固体・液体・気体はこの素粒子から形成されている。したがって、人間が感知しているあらゆる物質は、あくまで人間がそれを認識できる五感を持っているからその違いを感じられているに過ぎず、それが固体か液体か気体かというのは素粒子の密度の差でしかない。例えば、自分の肉体と周囲にある空気や物体は別の物として認識するが、素粒子レベルでは一体であるとも言える。もっと言えば、生きているものと死んでいるものも物質という意味では素粒子レベルで同じと言える。そして、その素粒子は確率でしか存在しておらず、その状態は観測によってはじめて確定するという。これが量子論の世界である。
一方、信仰の世界における祈りという行為が「ある状態を具体的にイメージし、それが実現することを強く願うこと」だとすると、たとえば今回の僕のケースでいえば「明日、子供達が無事故で学校に登校し、無事に1日を過ごせること」という状態を具体的に祈り、題目を唱える。想いを声に乗せる。声は振動であり波の伝播によって伝わっていく。この祈りが同じ世界の別の場所へ、確率の世界を伝播して実現する可能性がゼロだと物理的に言いきれるだろうか。たしかに、祈りが叶うということは、およそ人間の直感では理解し難い。ゆえに信じること理解することが難しい。これは当然と言えば当然である。一方で先の量子論は、あのアインシュタインでさえ信じられなかったのだ。では、量子論も同様に直感に反しているから「カルト」の類だろうか。いや、これは科学だという。なぜなら、これは実験による客観的なエビデンスがあるから信じるのだという。では信仰はどうか、それは客観的なエビデンスがないからカルトであり、信じられないという。この構図はどこか、かつてのボーアとアインシュタインの関係と似た構図に見えないだろうか。量子論における「物事の状態は観測によってはじめて決定される」ことと信仰における「祈り(ある状態をイメージし、その実現を強く願うこと)は叶う(実現する)」の間に共通するものは、本当にないのだろうか。
科学と信仰はともに「信じる」もの
ちなみに僕は、自然科学の理論が必ずしも正しいとは思っていない。それは、量子力学の登場によって長年信じられてきたニュートン力学が覆ったように、相対性理論によって時空の捉え方が変容したように、その時正しいと思われていることは、その時代の常識と技術と実験の限界等を前提とした仮説であり、その前提が変われば結果も自ずと変わる。人類はそうして、偉大な先人達の仮説・検証の繰り返しの積み上げによって、知の領域を広げてきた。これが科学である。
一方で、信仰というものは、数千年前に悟りを得た一人から始まり、師から弟子へ、脈々と受け継がれながら、数千年もの時間を重ね、今に伝わる生命の法理である。これまで幾度となく疑念を持たれ議論の対象となり、権力に利用され、あらゆる土地で多様な人のさまざまな解釈を経て今に至る。「人生とは何か」「どう生きるべきか」この根源的な問いと向き合い続けた先人達の数多の修行と思考の到着点と言うべきものが信仰だと、今は思う。この数千年の歳月を経て信じ続けられてきた伝統的な信仰に対し、ここ100年ほどで大きなパラダイムシフトを経験した自然科学が矛盾しないというのは、それ自体が驚くべきことであるが、必然の一致とも言える。
これらを踏まえると、自然科学で得られた仮説は信じられるが信仰は信じられない、というのはエビデンスらしきものがあるかどうかくらいのもので、仮説を信じるという点においては本質的に同じだと思う。あとはメンタルブロックを外せるかどうか。僕は今回の一連の出来事でそのブロックが外れた。これまで考え続けてきたモヤモヤが「生命を永遠と捉える」という出発点から考え直すことでスッと筋が通った。あとはこれが正しいかどうかのエビデンスを示せるかどうか。これは、僕の2025年の挑戦を見てもらえれば自ずと明らかになると信じている。
【ご参考】タグクラウド
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