【起業の経緯05】人生のモヤモヤを晴らす本との出会い
人生のモヤモヤと向き合う
これは事前に想像できていなかったのだが、ひとり暮らしを始めると、ぽっかり時間ができる。
これまで5人家族で暮らしてきた賑やかな生活からは想像できないほど、空白の時間ができる。ついでに家もガラーンとして空間もできる。これは意外と寂しい。
こうして意図せず生まれた空白の時間。人生においてこんな空白の時間ができることもそうそうないだろう。この時間をどう使おうか。あれこれ考えた結果、僕はこれまでモヤモヤしてきたこと、考えなきゃいけないと思いながらも、忙しさにかまけて、向き合えていなかったことに向き合う時間にしようと思った。なんだか、このまま成り行きでいくと、なんとなく後悔しそうだと思ったからだ。
それからというもの、これまで読んできた本を読み返したり、TSUTAYAに行ってそれっぽい本を手に取ってはコーヒーを飲みながら読んだりした。Mnemosyneの5mm方眼A4ノートを大量に買い込み、妻とお揃いで買ったものの一回も使わずに眠っていたMONTBLANCの万年筆を引っ張り出し、頭の中にあるモヤモヤをひたすらノートに書き出した。いったいあの時、何にモヤモヤしていたのか。いつどんな場面でモヤモヤしていたのか。言葉になっていなかったモヤモヤを不恰好なままでいいからとにかく記憶から引っ張り出し、ひとつひとつ丁寧に紐解いて言葉に変換する。とっかかりがなければ、キーワードをGoogleやYouTubeの検索欄につっこみ、端から流してヒントを探した。該当する情報がなければ、今度はChatGPTに聞いてみる。あってるのか間違ってるのかわからないが、それっぽい回答を返してくれるのでそれをとっかかりにまた考えて考えてノートに書き出す。ビジネス書、哲学書、ショート/ロング動画、映画、とにかくインプットして、考えて、紙に書く。あーでもない、こーでもない、答えに近づいているのかもさっぱりわからない。それでも、まさに頭の中のモヤモヤを晴らすかのようにひたすら書き散らす。
インプット→考える→書く、インプット→考える→書く、、を繰り返す。まだ答えは見えない、これだ、あれだ、と部分的な解っぽい言葉をメモっておき頭でつなぎ合わせていく・・まだモヤモヤは晴れない。なぜ、なぜ、なぜ、、自問自答を繰り返す・・
ある本との出会い
そうして2週間くらい経過した2024年7月16日の夜、僕はガラーンとした自宅で一人ソワソワしていた。なぜなら翌日の7月17日は、子供達が初めてマレーシアの学校に登校する日だからだ。普段あまり心配をしない僕が、珍しくソワソワしていた。でも、遠く離れた彼らに、僕が物理的にできることは残念ながらひとつもない。任せるしかないのだ。ソワソワした気持ちを落ち着かせ、いつも通り取り止めもないことを考えてはノートに書く。ふと、思い出した。そうだ、最近読んだkindleに入っているあの本にヒントがあるかもしれない‥ざっと読み直して、ハッとした。
これは極めて大事な問題です。死の解明は、人間の、そして、宗教の重要なテーマです。(中略) 現代人のなかには、生命というのは、今世限りだと考えている人も多いようですが、もしも、生命が永遠でなければ、生まれながらの不公平を、どうとらえればよいのかという問題が残ります。もし、神が人間をつくったのであるならば、皆、平等につくるべきです。また、生命が今世限りなら、不幸な星の下に生まれた人は、親を恨み、無気力にならざるを得ません。あるいは、何をしようが、おもしろおかしく生きていけばよいと考え、刹那主義に陥ってしまうことになる。この宿命が、どこから生じたのかを、徹底して突き詰めていくならば、どうしても、今世だけで解決することはできない。生命が永遠であるという観点に立たざるを得ません。三世にわたる生命の因果の法則のうえから、この宿命の根本原因を明かし、宿業の転換の道を示しているのが仏法なんです。(「新・人間革命3巻」より引用)
「死とは何か」の正しい究明がなければ、人間として「なんのために死ぬか」「いかに死ぬか」を考えることはできない。そうであれば、「いかに生きるか」という答えも導き出すことはできない。現代人は、死という問題自体を、徹して掘り下げようとはしない。実はそこに目先の利害や虚栄、快楽に流されがちな風潮を生み出している、根本的な要因が潜んでいるといえよう。生者が正しい信仰をもって、その成仏を願い、唱題していくならば、それが死者の生命に感応し、苦を抜き、楽を与えることができる。南無妙法蓮華経は宇宙の根本法であり、全宇宙に通じていくからです。先祖が成仏したかどうかを見極める決め手は、さきほども申しましたように、子孫である自分が、幸福になったかどうかです。それが、先祖の成仏の証明になります (「新・人間革命3巻」より引用)
これは・・・、と衝撃が走った。これまでノートに書き殴った言葉達を見返し、本の内容と照らし合わせていく・・・父との別れ、生と死、人生の意味、家族のこと、仕事・社会に感じてきた違和感、歴史、自然法則・量子論、信仰、これまでの人生で直面してきた数々の疑問、ずっとモヤモヤしていたことが、この考え方を基点に考えると、何の矛盾もなく、すっと腹に落ちたのだ。
何を読んでも、どんなに動画を見ても、調べても、ピンと来なかった。本質をついた、芯を食ったことを言っていると感じた人はいなかった。だけど、この本は違う。嘘やごまかしや矛盾がない。そして言葉に確信がある。これまでの人生で蓄積してきた知識や経験、思考、感情、違和感も含め、分野を問わず矛盾していないことをこの時、かろうじて直感できた、という表現が近いかもしれない。
すべては揺るがぬ信念を持つ"ひとり"から始まる
実は「信仰」は僕にとっては新しいものでも珍しいものでもない。「信仰」ある家族のもとに生まれ育ち、「信仰」が身近にある環境で生きてきたが、僕自身が主体的に信仰心があったかといえば、全くなかった。むしろこの日本に、この時代に生まれ、「信仰」を持っていることによって受ける不利益・理不尽の方が遥かに大きい。これは「信仰」を持ったことがない人には理解できないかもしれないが、「信仰」を持っているというだけで、世間から激しく攻撃される。週刊誌に叩かれ、それを見た偏見を持つ人々の冷たい視線・非難中傷を浴びる。なぜこの国では「信仰」を持っていることを隠しながら生きなければならないのか。なぜ信仰が何かも知らない人々に嘲笑され、非難を受けなければいけないのか。わけがわからない後ろめたさ・肩身の狭さを感じながらずっと生きてきた。
しかし一方で、じゃあ自分はこれまで「信仰」と向き合ってきたのかというと、全然向き合ってこなかった。完全に受け身。生まれながらに親に持たされたものだから仕方がないという意識でしかなかった。
でも、これまで意識的にも無意識的にも避けてきたこの「信仰」というものに向き合う時がようやく来たのかもしれない。
この国は、信仰による苦い記憶が根強い。日本のTVや動画を見ていても「私は信仰を持っている」と公言して活動する人は少ない。おそらくそれは信仰を持っていると世間にバレようものなら、即座に袋叩きに合うからだろう。信仰を持つ人はオカルトを盲信する変な人、近づいてはいけない危ない人、と思われる風潮がある。僕自身、周囲にそう思われたくなくて、なるべく隠しながら生きてきた。ビビっていたのだ。だけど、だからこそ、、今その自分の弱く醜い姿勢を見直そうと思った。
誰に何と思われようと、自分が信じるものを貫く。それが「信仰」である。そして、その強い信念がなければ、何も成し遂げることはできない。何かを成し遂げたように見えても、その奥底に信念が通っていなければ砂上の楼閣であり、その見せかけだけの楼閣に価値はない。僕がこれまで触れてきた言葉や振る舞いの中でも特に感動を覚えた人たちは皆、強い信念を持っていた。誰が相手であろうと決して恐れず怯まず、自分の信念を堅く信じ、命をかけて貫き通した。それは思えば僕の恩師も父もそうだった。誰に何を言われようとどこ吹く風で、信念を曲げることはない。しかしその居様だけを見ていては、その凄みを感じることすらできない。命をも惜しまないその「不惜身命」の姿に、人の心は動かされ、波動のように広がり、大きなムーブメントになっていく。
次は僕の番だ。ようやくそう思えた。
【ご参考】タグクラウド
※本ブログでは以下のようなキーワードでブログを書いてます。
Google HP作成 Nontitle P1.個人 P2.家族 p2.最近接社会 P3.現代社会 P3.社会 P6.信仰 WordPress オンラインスクール事業 キャリア ゲシュタルト能力 コンサル コンフォートゾーン チーム ネットワーキング事業 ビジトラ ビジネス ビジネスパートナー ファイナンス ブログ マックス・ウェーバー マレーシア マレーシア移住 モヤモヤ 人生 人生観 仲間 会社設立 信頼 全体構成 全集中 厚利少売 地図 方法論 朝活 海外移住 社会学 税理士 習慣 資金調達 起業準備 超一流 鉄の檻